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■秋田市新屋、日吉神社鎮座1200年祭 |
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*今年の日吉神社山王祭は、御鎮座1200年祭のため統前町がなく、神社側で行うことになった。ところが、人手が足りなくて助勢員として各町内から2名派遣された。いわゆる助っ人である。祭典当日が平日となったため、毎日が日曜日の私に以来が来たのである。去年に続いて2年連続である。 |
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*画面をクリックすると、拡大されます。 |
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*7年前の平成10年に、私の住んでいる上表町が統前町になった。その時、動画撮影を担当したので、その時のVTRをデジカメで撮影して静止画化した。これを使って、山王祭の行事を紹介したい。 |
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■日吉神社由緒 |
▼例祭日 ・祈年祭 4月13日 |
・山王祭 5月26日 |
・鹿島流し 5月第2日曜日 |
・新嘗祭 11月26日 |
▼御祭神 ・大山咋(おおやまくい)大神 |
・積羽八重事代主(つみはやえことしろぬし)大神 |
・大物主大神 |
・崇徳天皇 |
・大穴遅(おおなむち)大神(大国主命) |
・少彦名(すくなひこな)命 |
・宇迦之御魂(うかのみたま)大神 |
・大宮乃売(おおみやのめ)命 |
・三吉大神 |
・底筒男(そこつつのお)命 |
・中筒男(なかつつのお)命 |
・表筒男(うわつつのお)命 |
・八坂刀(やさかとめ)女命 |
・息長足比売(おきながたらしひめ)命(神功皇后=じんぐうこうごう) |
・建御名方(たけみなかた)大神 |
・猿田彦命 |
・天満天神(菅原道真公) |
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・日吉神社は、山王杜といわれ、大同元(西暦806)年、由利郡勝平山の麓(新屋は古く「ももさだ」と呼ばれ、もと由利郡に属し、後に河辺郡、皿に昭和16年秋田市に合併した)に鎮座したと伝えられる。その後、新屋町の東南方凡そ五町の地ー字田中屋敷(現一本木跡地)に移り、永治元(1141)年、現在の地に遷座したといわれる。 |
その御神体は、江州(近江国-滋賀県)大津の坂本にある旧官弊大社日吉神社のご神体を作った余材であり千載の遺物であると伝えられる。よって古くより近江坂本の別社と称していた。 |
平安の末期、平泉の奥州藤原氏の郎党で、のち源頼朝に仕えた由利維平がこの地を所領した時、七千刈を寄進、その後由利を治めた赤尾津光善からも七千刈を寄進された。 |
慶長の末(1615年頃)になって、赤尾津氏が滅び最上義光が領有するようになって社領はことごとく没収され、社頭もさびれた。これを憂いた赤尾津氏の遺臣小野金助守就は、楯岡豊前守満茂に陳情し、社殿の修復を許されたうえ七千刈の寄進を受けた。元和8年(1622年)佐竹氏の領地替えとなってからは、稟米3石5斗を受けている。寛文9年(1669年)に社殿が造営されたのを始め、歴代の領主により社殿が建立されている。 |
明治維新以降は社領が廃止されたが、古来代々領主の崇敬厚き故を持って明治5年郷社列せられ、明治12年10月20日県社に昇格した。明治28年3月1日社殿から出火。ご神体、朱佛丸(由利維平奉納の神鏡)、社殿悉く焼失した。明治33年官祭招魂社の絵馬堂を購求し拝殿としている。大正6年になって本殿が新築になり、昭和15年弊殿が増築された。昭和42年には廻廊が、昭和44年には社務所は新築された。 |
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●2006/5/1 小祓式(獅子祓い) |
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*5名の自宅で行われた。 |
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・お祭りの月の初日、統前町の祭典重役のお宅を回り、家の中や衣類を獅子頭で祓います。 |
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●2006/5/20 大祓式(神社内) |
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・頭人の家の床の間にシメ縄を張り廻らし、祭事を行った後は、家人でもみだりに入ることが出来ない。今年は1200年祭のため、頭人役は来年の緑町予定者がやった。だから、竹矢来は無かったのである。 |
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●2006/5/21〜24 |
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*21時〜 五色弊納 |
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●2006/5/25(木) |
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▼標語コンクール表彰式 |
《金賞作品》 |
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・『うけつごう ぼくたちの手で かしまさん』 |
小学校4年3組 大友 たくや くん |
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・『おもの川 夏の夜空に きらきらと 星のように まいちる花火』 |
小学校5年4組 庄司 栞 さん |
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・『鹿島船 つなひく子供の 光るあせ 青空の下 ひびくかけ声』 |
小学校6年2組 佐々木 美優 さん |
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・『我が町の 長寿のひけつは 湧き水だ 目指せ 長生き 新屋町』 |
中学校2年 石川 愛 さん |
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▼宵宮祭御差鉾祭 |
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宵宮は、18:00にノロシが上がって、神社で神事を開始。18:50には御差鉾が神社を出発。夜店の中の新屋表町を通り笹町のバス停まで直進。栗田神社方向に右折して、直ぐまた右折。頭人宅が無いため、途中の休憩が無く、日新小学校下から忠専寺の前を直進。三角屋から右折して、19:40に神社に戻る。予想以上に早く帰ってきた。 |
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助灯篭(すけどうろう) |
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助灯篭(すけどうろう) |
頭人は、御差鉾(おさしぼ)
の御幣の中に入って、
無我夢中でのまま道中を歩く。 |
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触れ太鼓 |
行列の先頭 |
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▼奉納演芸 浅野梅若社中(神社境内) 19:00〜20:30 |
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●2006/5/26(金) 例祭御神幸祭 |
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神社境内での神事 |
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本祭りの御神幸に、 私も参加した。助勢員としての協力で、いわゆる警備担当である。1200年祭のため、統前町は無い。9:30に神社に集合して、10:00に神事が開始された。 |
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大鳥居 |
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11:00に神社を出発。御神輿を担いでの行列で、夜店や屋台が列んでいて、商店の多い新屋の表町をゆっくり進み、秋田銀行新屋支店前で、休憩。子供たちはジュース。大人たちは、国萬歳酒造からお酒が振る舞われた。そのあと、笹町のバス停まで直進。ここで右折して、栗田神社でお昼の休憩とした。 |
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御神輿は、新輿連が担ぐようになったのだが、今年は特別の年というわけで、担ぎ手をかき集め3班を編成したという。だから、台車を使うことなく、全て担ぎ通したのである。 |
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▼栗田神社紹介 |
・植林により、飛び砂の害から人々を救い、今日の海岸砂防林の源をなした、栗田定之丞翁を文政11年(1828)に翁に仕えていた佐藤東四郎・大門武兵衛が、現在の割山に祠を建て、栗田大人として祀ったのが始まりである。その後、藩から一社を建て栗田大明神と称することを許され、8月1日を祭日として、今日に至っている。大正元年(1912)、雄物川改修工事により現在地に遷座された。昭和43年、秋田市史跡指定。 |
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▼覆堂の由来 |
・栗田定之丞大人を称えたこの遺愛碑は、天保3年(1832)に建立され、大正元年(1912)に雄物川改修工事のため移遷、現在地に鎮座されました。この碑を末永く保存、後世に遺わすため、昭和30年(1955)栗田神社氏子総代の方々により覆堂が建てられました。雨天40年余りを経て、この覆堂も今は朽ち果て倒壊寸前となり、この様態を偲びずこの度不図ずも栗田神社敬神会が設立30周年記念行事として当覆堂の再建を発起したところ、栗田神社始め氏子総代、各町内会、一般敬神者の方々から格別なるご賛同を仰ぎ、多くのご寄進を賜り、本覆堂の再建となった次第でございます。 |
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栗田神社境内にシートを敷いて、赤飯とお茶で、お昼を戴く。お決まりのビールは無かった。13:15には栗田神社を出発して、町中を練り歩き1時間掛けて、旧パルプの一本木に向かった。 |
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▼「一本木」紹介 |
・古伝によれば、日吉神社は大同元(西暦806)年、勝平山の麓に鎮座、天長の大地震の後字田中屋敷、即ちこの地、字「一本木」に移り、永治元(1141)年、現在の地に遷座したと伝わる。当時この付近には、別当関・獅子舞小路などがあったといわれている。 |
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昔の東北パルプの正門を見て思い出した。この付近には、下の社宅の独身寮と言う、宴会場があった。そう言えば、その隣に広い空き地があった。それが今思えば、「一本木」かも? グランドや、体育館もあったが、今や朽ち果て寸前。グランドでは運動会や野球を良くやっていた。体育館では、中学生の頃柔道を習ったこともある。その近くには、銭湯があり。家族の社交場となっていた。 |
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旧東北パルプ跡地 |
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14:50には「一本木」を出発して、15:30に神社に戻る。 |
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▼奉納演芸 浅野梅若社中(神社境内) 14:00〜16:00、19:00〜20:30 |
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●2006/5/27(土) 御鎮座1200年祭 |
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▼町内対抗新屋囃子コンクール 14:00〜 |
*1200年という時を一つの機会として、新しい新屋の伝統を育てられないかと相談し、「あらやばやし」と言うおはやしを作りました。従来からある、鹿島太鼓と、よちゃこの灯篭の歌の調子を借りて、簡単な笛の節を付けたものです。勿論、完成品ではないので、これから時間をかけて育てて貰いたいと願っています。 |
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・優勝 日の出町 賞金20万円 |
・準優勝 下表町 賞金10万円 |
・三位 比内町 賞金 5万円 |
・参加賞 1万円 |
*新屋衆報を見ましたら、準優勝と3位の町内が違っておりました。お詫びして、訂正します。 |
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▼記念大祭神楽一般公開 16:30〜 |
*神社のお祭りで舞われる神楽は、神様と人間が共に楽しむ神人和楽を形にしたもので、見ごたえのあるもの。 |
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Ksymbol |
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次は、●2006/05/24 大仙市南外滝ノ沢 「NPO農楽舎」 畑植え付け紀行 |
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