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★第2回生(昭和29年=1954年卒) 50周年記念誌寄稿
 
■放送部の始まり ・鈴 木 良 雄
 

 元々は運動部や文化部の中に放送部という部があったわけではなく、生徒会の中に報知委員会というのがあって、放送室の運営もその活動の中に含まれていたということらしい。放送室は、玄関を入ってすぐ右手、宿直室ののそばに一坪にも満たない狭い部屋があって、アンプやマイクが置かれていた。当時、視聴覚教育とか何かの名目で設置されたのではなかろうか。報知委員会は我々の一年上から始まったようで、三浦弘さんなどがいた。ただ、実質的な活動は、我々が2年の時から始まったように記憶する。
 
 アナウンサーを募集し、応募した佐々木宣雄君や、田中房子さん、山下恵美子さんらが、鎌田敏夫君が拾い集めてきたニュースを昼休み時間に校内放送で全校に流すということで始まった。電気にやけに詳しい小原直君が、いい音を出すために腐心していた。そのうち放送室は一種の溜まり場と化し、あの狭い部屋に十数人入ったとかいう伝説も生まれた。
 
 報知委員会(あるいは生徒会)の指導教官が、タム鉄先生で、その物理の授業中、スイッチを切り忘れたのか、放送室でダべっている声が教室に流れ、先生が私の方を向いてニヤっと笑い、私は”では、ちょっと”とか何とか、ごもごもつぶやきながら放送室に駆けつけ、スイッチを切ったりしてこともある。
 
 そうした中で、八十周年記念行事ではその活動は光彩を放つ。そののち、放送部としての形態が整い、全国高校放送のコンクールに参加したり、入賞したりしたのは次の世代の活躍によるのである。

 
当時の報知委員(放送部)
 
■高校生活−そのひとこま ・井 上 房 子(旧姓・田中)
 

 入学した当人たちは、その重みを大して感じることもなく過ごした日々だったのだけれど、時を経るに従い男子のみの高校に入ってしまった<事の重大さ>に気付かされたのである。
 
 それらは、青臭く未熟ゆえ羞恥心を伴いながらも、いま鮮やかによみがえってくる。
 
 <放送部>への勧誘があった。”おしらせ”を主とした毎日の昼食時と、”行事”の時のアナウンスを”せよ”とのこと。アナウンサーは、古田(旧姓山下・昭和29年卒)、鈴木(昭和30年卒)と私の3人。田口部長(昭和28年卒)は豊かな企画力で精力的に行動した。
 
 広小路東北電力前に陣取っての文化祭の宣伝活動なども部長のアイデアで、スピーカーから流れる自分の声に照れながらも、楽しく充実感を得たいた。
 
 夏休み中は、各大学音楽部の巡演によく駆り出された。会場は今は姿をとどめぬ記念館で、古びた木造の建物の内は埃っぽく、舞台袖の放送室は椅子を引くと音が響いた。東北大グリークラブ、慶応ワグネルソサエティなど、クラブや曲名を必死にアナウンスするのだった。

 
〜 昭和29年卒同期会誌より 〜 
 
■放送部創設の頃  ・赤沼 有
 

 校内の諸連絡が主たる役割として昭和27年に生徒会に報知委員会が設置され、委員長は28年卒の三浦弘さんだったが、活動の中心は一年下の我々29年卒であった。この頃のことは創立50年誌に鈴木良雄君が寄稿している。正式に認証された名称ではないが通称「放送部」と称していた。

 放送部発足の最初の仕事はアナウンサーの募集で、小原君(故人)がオシロスコープで音声の波形を見て発音の美しさを判定したように思うが、甚だいい加減な採用テストだった。

 当時の校舎は旧兵舎の跡で、誠に粗末な建物だった。放送室は先生の宿直室の隣で1坪にも満たない狭い部屋で、3人も入れば満員だった。仕切りはベニア板より安物の板だったと思う。隣の宿直室の先生達の雑談が筒抜けだった。

 スイッチを切るのを忘れ、室内の雑談が全校に流れたのは、鈴木君が書いていたと思うが、学校側の我々に対する管理はかなり甘かった。力を入れたのは、校内のニュースで特に鎌田君は職員会議のすっぱ抜きを含め校内の情報の収集力は抜群であった。宿直室の先生たちの筒抜けの雑談からもニュースを掴んで様だが。学校創立80周年記念行事や野球を始めボートまで含めた10種目以上の全校クラス対抗試合のニュースなどでは大いにその役割を果たしていた

 顧問の先生は田村先生(たむてつ)で、教師というよりも「酒の先生」であった。度々千秋公園の奥に在った自宅でご馳走になったが、酒は神様もお神酒と称して飲むのだから、飲んでもよろしいということで大いに飲んだ。先生は秋田高校を退職、原子力船「むつ」の開発に参加、試運転で太平洋上に出たが基地の反対運動で寄港が出来ず、太平洋を漂流し苦労していたことを思い出す。

 29年卒のメンバーも鬼籍に入る人が出てきた。メンバーは

 ・報知委員:鈴木良雄、鎌田敏夫(故人)、赤沼有
 ・アナウンサー:佐々木宣雄(H19年病死)、田中房子、山下恵美子、佐藤公一郎
 ・技術:小原直(故人)、川合昭(ブラジル)

 一番元気だった鎌田君は日立に入社し、昭和
35年頃日本鋼管でクレーンの検査中に落下即死。高校では最も親しい友人の1人であっただけに、大変悲しい出来事だった。

 我々の在学時代は、秋田高校の長い歴史の中でも一つの時代を画した時代と思う。戦後、校名が秋田中学から秋田南高校に変わったが、三年(昭和28年)の時秋田高校に変わった。

 鎌田君と北高の放送部に北高はどうするかインタビューに行ったことを思い出す。男女共学も私達の同期生が一期生である。

 55年も昔のことであり、まさに忘却の彼方の出来事だが、あの狭い放送室の中の諸々の想い出が青春の一ページとして胸に熱く来るものがある。

 
 
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