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★第12回生(昭和39年=1964年卒) 50周年記念誌寄稿
 
■一坪放送室から、広々放送室へ  高 橋  伸
 

 入学した昭和36年は秋田国体の年。2年生はマスゲームの練習に明け暮れて大変そう。国体は人ごとのように観ていたら、我が家が宮城県選手の民宿になっていた。陸上競技場に応援に行ったりもした。日新中学時代から放送に関わっていたので、放送部に入ることは初めから決めていた。秋田駅前にあった木造校舎で、入学して落ち着いた頃に放送室に向かった。正面玄関の右側、宿直室の前にその部屋はあった。機械室とアナウンス室が仕切られていて、狭いので皆さん立って話をしていた。

 春が来て、手形大松沢の新校舎に移転することになり、これからはLPの時代とSPレコードを、残雪の中庭テニスコートに円盤投げをしていた。今思うと、もったいないことをしてしまった。 そのころ卓球部が不活発で、部室から近い体育館に、この時とばかりにみんなで卓球をした。これが新校舎になっても続いた。

 新校舎では、広々とした放送室と新しい機械が用意されていた。卓上型の機械だったが、校内放送の分配には使いにくくて、旧校舎から持ってきた機械を使って、新しいのは録音用としていた。部屋は広くて、会議をするにも困らないくらいだった。

 3年になって、中村・佐々木君とクラスが一緒となり、放送部クラスと言われた。その教室が部室の直ぐ隣となりで、先生が教室に入ったのを観て、クラスに向かったものだ。

 
 
この私の寄稿は、2008年7月発行の同窓会だより79号に載りました。
 
      
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