*このメッセージは、当時のパソコン通信(BBS)の掲示板に掲載されたものです。
 
 *この年と、1995年の2回向かっています。
★写真をクリックすると、拡大されます
西日本汽船「ニューゆうとぴあ」
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 グァム・サイパンへの船旅 その1 − 元気で帰国
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 昨日,グァム・サイパンへの10日間の船旅から,元気で帰ってきた。
  
 私は,「第8回AKT少年の船」の技術スタッフとして,1989(昭和64)年1月6日,1万2千トンの客船「ニューゆうとぴあ」で仙台新港を出港。小学校5年生から中学校2年生までの男女団員,515人の子供たちと行動を共にし,海水浴などで真っ黒に日焼けして,平成元年1月15日に全員元気で帰ってきた。
 
 毎日お天気に恵まれて,曇ったのは3日目だけ,快晴の連続で,雨は降らなかった。サイパンは30度と暑いが,湿気がなくサラッとしている。日差しが日本と違って強く,日焼け止めをしないと赤く腫れてしまう。 一方,グァムは同じく30度ぐらいだが,湿気があり蒸し暑いので,汗が止まらない。私は島内では,あまり日光浴する暇がなかったので,帰りの船であわてて日光浴したが,あまり焼けなかった。
 
     主  な 日  程
 
1/6  列車で秋田を出発,仙台新港を出港,船内で開校式
 
1/7  船内の衛星テレビで天皇陛下の崩御を知り,臨時集会を開き子供達に知らせる。コーラスの練習,海難訓練,船内見学,税関の仕事とその役割を研修
 
1/8  船内でディスコダンス,英会話教室,合唱コンクール
 
1/9  サイパン島に上陸,万歳クリフでの慰霊祭,海水浴,サイパンを出港。甲板で星座観測
 
1/10 グァム島上陸,海水浴・綱引き大会・ポリネシアンショー・現地の子供達との交流会・キャンプファイヤー
 
1/11 グァム島内観光・ショツピング・仙台から乗船していたグァムの2人の子供とのお別れ会
 
1/12 午前中海水浴,昼にグァムを出港,船内で黒んぼ大会・誕生会
 
1/13 船内で少年の船祭りの準備・ビンゴゲーム・ディスコ大会
 
1/14 子供達による少年の船祭り(ウルトラクイズ・腕相撲大会・のど自慢大会)・解団式
 
1/15 仙台新港入港,バスで秋田へ
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 とにかく,グァム・サイパンへは船で片道,丸3日かかるので船酔が心配だったが,8回の中では一番荒れない航海で,わずかに3日目にちょっと荒れただけ。この日は初めての船旅のせいか船酔となり,ご飯は食べられないし,はきけはするし,1日中ダウンしてしまった。
 
 10日間は長かった,とかく揺れて陸が恋しくなるし,早く家に帰っておいしいご飯を食べたくなったものだ。
 
 続きは「グァム・サイパンへの船旅」シリーズとして,何回かに分けて,UPしますので,ご期待ください。
 
 ★初めての船旅・海外旅行
 ★初めてドルを使って買物をした
 ★とにかく疲れて昨日は早く寝てしまった
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その2 − 地獄の7つ道具の荷下ろし
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●1989(昭和64)年1月6日(金) 第1日 快晴
 
船倉の入口 船倉 出港式
 われわれ,ちのかのスタッフは20人だが,列車でくる団員とは別に先発隊として,準備のため前日の1月5日(木)に新幹線で仙台に乗り込んだ。
 
 翌日の朝,仙台新港に行き,まずは秋田からチャーターして積んで来たトラックを船倉に入れ,15トン分の荷物を下ろすことから始まった。まずは秋田米20キロ入れが200袋,10人ぐらいで下ろし始めたが,運んでも運んでもなかなかなくならない,それが終わると,10日間のセミナーで使う文房具から,ゴミ袋まで入った段ボールを下ろす。この日仙台は快晴で,秋田から防寒コートで来たわれわれには熱つすぎて,汗たらたらである。そのほかテレビ撮影機材,PA機材,写真機材,医療班の機材,旅行代理店の荷物を下ろす。次から次へと下ろし船倉に広げるが,なかなか終わらない,ただ汗が出るだけだ。1時間半ぐらいかかって,ようやく15トンの荷下ろしが終わった。続いてすぐ,1階の船倉から4階の本部への荷揚げである。これまた昼食をはさんで本隊の到着した2時半ぎりぎりまでかかった。
 
 昼食は先発隊だけの役得で,船のレストランでのフルコース,これははっきり言っておいしかった。フルコースは,このときだけである。
 
 もうくたくたであったが,列車とバスを乗り継いで来た団員が全員乗り込んで出港となった。その後もやることがいっぱいあり,出港気分を味わっていられない,作業は開校式が始まる4時半までかかり,長い1日だった。ただ1ついいことは,夜われわれスタッフに,船長主催のウエルカム・パーティーがおこなわれたこと。
 
 中年のおじさんにはこたえた1日だった
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その3 − 天皇陛下崩御と平成元年
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●1989(昭和64)年1月7日(土) 第二日 快晴
 
朝日 汽笛 臨時集会
 いつものように,われわれスタッフは,朝6時に起きた。ところがあるスタッフが,「いまテレビを見ていたら,午前4時半現在,陛下は重体と発表した」と言った。これには皆びっくりした。前からスタッフの間では,この船旅の間に崩御があるのではと心配していた。しかしこの際にはスケジュールは変更しないことに,確認していた。またあるスタッフは,「このあいだに起きれば,洋上であるしどうしようもないのでは,本社の人は大変だと思うけど」と言っていた。
 
 6時30分には,子供達を起床させて,7時には甲板に集めて「朝の集い」(連絡・体操)を開いた。そして,7時30分からレストランで朝食を開始した。600人の食事のため,全員一緒にはできないので,次から次へと流れるようにきてもらって,食事をする。全員食事をするのに1時間半かかるのである。8時頃スタッフの間に,「6時33分,天皇陛下崩御」の情報が流れた。またレストランに来る子供達も,何人かこの話をしており,どうして知っているのかと,不思議に思った。
 
 西日本汽船の「ニューユートピア」は,今年から衛星との通信システムを導入し,船の操舵に,電話に,ファックスに,テレビに使用している。だから今までだと沿岸でしか見られなかったテレビが,NHKの衛星が届く小笠原諸島までの,はるか太平洋上でも見えるのである。
 
 8時40分に全員を甲板に集合させて,臨時集会を開いた。このときに,初めて全員が「天皇崩御」を知った。代表4人が海に花束を投げ,汽笛を鳴らして,1分間の黙祷をささげた。
 
 それからときどきテレビを見ては,仕事をしていたので,午後3時頃の「平成」記者会見は,同時に知った。そして特別番組も,小笠原諸島を過ぎる,次の日の朝まで見えていた。次の日には,衛星ファクスで送られてきた,秋田さきがけ新報が,船内に貼られ,天皇崩御の様子もわかった。
 
 この日夜9時には,時差を調整するため時計を1時間早めた。それで寝る時間が1時間短くなったのである。
 
 こうして,航海2日目にして,昭和から平成にかけての船旅が始まったのである。
 
              時,同じくしてこの夕方から海は荒れてきて,
               船酔が続出,私もダウンした。
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その4 − 船酔に悩まされた一日
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●年号が変わって平成元年(1989年)1月8日(日) 第三日 曇り
 
 この日は今回の船旅で唯一の船が揺れた日である。前の日の夜から揺れ初めて,子供達は予定していたコーラス大会を止めて税関の勉強会とした。このとき集まった中で,船酔が続出し早く切り上げることになった。次の日の朝はご飯を食べた人は1/3ぐらいで,ほとんどダウンしているのだ。昼食も同じである。私も完全に船酔となり,吐いてしまった,朝・昼と2食は食べられず,起きあがると酔ってしまうので,1日中横になっていたのである。
 
 昼間のセミナーは,ディスコダンス・英会話教室などが行なわれたが,船酔の子供は自分の部屋で横になり,子供らの手でおかゆなどが運ばれていたが,食べられない子は医務室で点滴を受ける人が続出し,その数は30人を越えた。
 
 夕方には収まって,夕食は食べられたが,子供達は初めての船酔と不安が重なり,沈んだ空気が流れて,ホームシックにかかる子供もいた。結局この日が今回の船旅で,いちばん苦しい日となり,次の日のサイパン上陸では,子供達は一転して元気を取り戻したのである。要するに陸に上がると直るのが,船酔なのだ。
 
 終わってみると,荒れたのはこの日だけで,8回の船旅の中では,一番波靜すかな航海となり,船酔に苦しむ子供達は例年より,少なかったのである。
 
    初めての船酔でダウンした
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その5 − サイパン島上陸!!
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●1989(平成元)年1月9日(月) 第4日 晴れ時々スコール
 
バンザイクリフ バードアイランド マイクロビーチ
 午前10時に,サイパン島のアプラ港に上陸した。岸壁では現地の娘さん達が,歌とダンスで迎えてくれた。子供達は昨日までの船酔は何処までいったのやら,全員やたら元気である。
 
 この日は,2班に分かれて行動した。1つは40分ほどあるいて,マイクロビーチにむかった。ここサイパンは30度を越える真夏。白い砂浜がきれいで,時折スコールも降るが,日差しが強いので日焼け止めを使用する。
 
 もう1つはバスで島の北端のサバネタ岬,別名バンザイクリフに向かう。ここは45年前の太平洋戦争で,追いつめられた日本兵や一般の人が集団自殺した場所。岸壁から80メートル下の荒海に「バンザイ」と身を投げて自殺した人は,1万人とも言われている。ちのか少年の船はここに慰霊碑を建て,来る度に慰霊祭を行なっている。バンザイクリフの南にあるマッピ山のふもとには,旧日本軍の最後の司令部跡(ラスト・コマンド・ポスト)があり,大砲や戦車が赤錆びて散乱していた。
 
 私とカメラマンの2人は,現地運転手付のワゴン車をチャーターし,マイクロビーチとバンザイクリフを取材したあと,誰も観光していないバードアイランドへ向かった。ここは大きな入り江に島がぽっんとあるところで,夕方になるとこの島に鳥がいっぱい来るので,この名前になっている。運ちゃんによると昔はもっと綺麗なところで,いつでも鳥がいっぱいいたが,台風で島が削られてはちの巣状になっているとのこと。
 
 昼食はわれわれだけ,メインストリートの日本食堂で,6ドルのランチを食べた。久しぶりの味噌汁付のご飯でこたえられなかった。ここの食堂は日本人の経営らしくて,日本語が通じるし,お客さんも日本人だけ。かつて日本の統治下にあっただけあって,英語はガアム島ほどはいらない。
 
 島の人口は,1万8千人ぐらいだが,メインストリートは4キロぐらいで,ゆっくり走ってもすぐにはずれに行ってしまう。信号もなく,走るスピードも30キロぐらいとゆっくりで,のんびりしているので,これだと交通事故もめったに起きないなと思った。民家はバラック風の粗末な家だが,1軒に1台はピカピカの日本車があり,メインストリートには日本車のディーラーが並んでいる。
 
 昼食のあと,南側のアギンガン岬に行ったがその眺めが良かった。その向こうに見えるテニアン島には飛行場があり,ここから飛行機が離陸し広島原爆を投下した。次に行ったところは旧日本人経営で栄えた,砂糖王公園と,日本病院跡,現地の小学校などに行った。
 
 この日夕方6時30分には出港し,夜には船の甲板で「ニューゆうとぴあ」の航海士さんによる,星座の観測が行なわれた。サーチライトの光線が黒板の上を動く棒のように,星空の位置を示して,カシオペア・うしかい・双子座などがよく見えた。南十字星も,グァムを最後の朝にみることが出来た。
 
サイパンはのんびりした田舎の
                   雰囲気で治安のいいところ
こないだの殺人事件は考えられないと
運ちゃんが言っていた。
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その6 − グァム島上陸!!
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●1989(平成元)年1月10日(火) 第5日 快晴
 
アプラ港に青森テレビの船 イパオビーチ
 今日は海水浴やキャンプファイヤーがあるので,7つ道具をいっぱい降ろさなければならない。朝早くから起きて,その荷物の準備をしていた。子供達より先に先発隊バスで,荷物を運ばなければならないから,急いでいた。下船をする前に,グァム当局の入国手続きがあるので,船内のホールで待っていたが,なかなか来ない。もちろんまだ入港していないから,タグボートで乗り込んで,いまコーヒーを飲んでいると言うのだ。どうも怪情報らしいので食事を先にすることにした。もう子供達は,食事を開始していたのである。
 
 入国手続きは自分のパスホートを旅行代理店より受け取り,グァムの入管に見せると,白髪まじりのおばさんが,写真を見て私の顔を見上げ,相違無いことを確認すると,スタンプを押した。その後検疫検査で,アンケートのようなものを提出し,また旅行代理店にパスボートを返すのだ。
 
 アプラ港に入港するとき,すでに日本からの船が2隻いた。1隻は青森テレビの船,もう1隻は岩手の船。いずれもわれわれと同じ目的の船である。なんといまでは北海道と東北6県が1隻づつやっているというから驚きだ。
 
 8時に下船し先発隊のバスに荷物を積み込んで,イパオビーチへ向かった。グァムはサイパンと違って都会だ。信号があるし,車の数も多い。それに家が平家でもコンクリで建っていて立派だ。40分ほどでイパオビーチに着いた。まず20人ほどでバスから荷物を降ろす。そして100メートルほど離れた大きな東屋風の建物に,重い荷物を2ー3回運ぶ。盗まれないように見張りをたてながらである。次に波打ち際に向かい,遊泳区域に浮きロープを張り,重りで固定する。私は,波打ち際に向けてトランペットスピーカーとマイクなどをセットした。そうして準備をしているうちに,子供達がバスでやってきた。
 
 子供達は,セミナーの先生達から注意を受けてから,準備体操をして海にはいる。なにせ珊瑚の海岸なので素足では泳がれないので,厚いソックスを履いて泳ぐのだ。われわれも泳げるのは今しかないので,子供達と一緒に泳いでみた。天気は快晴,気温は30度,それなのになぜか水は冷たい。泳いでいるうちはいいが,上がると寒いのだ。でも日差しが日本と違う,頭の上からカーッとくる感じで,日焼け止めクリームを塗らないとやけどをする位なのだ。いっぺんに500人も泳ぐから,この広い浜も芋あらいだ。先ほど張った浮きロープを過ぎると,大人でも足が届かなくなるので,子供達を誘導する。
 
 そのうちに水上でテレビカメラの取材が始まった。ここでちのか式水上カメラを紹介しよう。カメラが入るくらいの大きさの,透明プラスチックで出来た箱に,カメラを入れる。子供達の泳いでいる様子を水面ぎりぎりで撮影する。時には水中も撮影できる。この浜には大きな「なまこ」がいっぱいいて,子供達はそれをいっぱい捕まえては,波打ち際に並べて遊んでいた。われわれはカメラの入った箱を支えながら,子供達の間を右往左往した。なにせ今の子供はカメラを怖がらないから,いっぱい群がってきて収拾がつかない。 
多民族国家のアメリカらしく
                 いろんな人がいる
初めは恐る恐る対面していたが
                 英語は片言でも手真似で十分通じるものだ。
ああ!! やっぱり外国だーーー
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その7 *ポリネシアンショーとキャンプファイヤー
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昼食 綱引き大会 キャンプファイヤー会場
 1月10日(火) 今回の子供たちは20人前後の班が6班あり,その6班を1組とし,4組ある。したがって班は6*4=24班となる。この各班にセミナーの先生が一人ずつ付くのである。そのほかに班を持たない先生が5人いるので,先生は総勢29人となる。そのほかに医師が2人,看護婦さんが2人,養護教諭が3人,旅行代理店が5人,新聞記者が一人,写真屋さんが2人,アルバイトが8人。ちのかの社員が20人。したがって生徒を除いたスタッフは72人となる。そのほかに税関の職員も数名いる。
 
 午前中みんな海水浴しているあいだに,何班かが現地のタムニン小学校を訪問し,授業を見たり,子供達と交流した。そのあと去年の台風の際お世話になった「オーシャン・パシフィックホテル」に行き,お礼をした。
 
 お昼となり,グァム第一ホテル製和弁当の昼食後,浜辺で綱引き大会をやる。班の対抗戦となり力くらべと応援合戦で盛り上がり,にぎやかな大会となった。ここで家族からの手紙が子供たちに渡されると,急にシーンとなり泣き出す子もいた。この間にわれわれはキャンプファイヤーの準備に取りかかる。まず私はトランペット・スピーカーを3本と,マイク・アンプなどをセットする。他のスタッフはファイヤーの組木をセットするが,許可をとってあるのに,現地の消防署と公園管理局が縄張り争いを演じて,とんだいちゃもんが付いたりする。
 
 この準備の間にも,子供達は別の場所で,グァム観光局長の歓迎の挨拶や,現地の歌手とダンサーによるポリネシアンショーが行なわれている。最後には子供も何人か代表で出て,ダンサーと一緒にハワイアンダンスをする。おおうけだ!!
 
 そのうちに現地の子供達との交流会が始まった。最初は緊張してあまり会話が出来なかったが,プレゼントを交換しているうちに仲良しになり,片言の英語で会話していた。
 
 夕食は現地ホテル持込みのチャモロ料理。油ぎどぎどで全部は食べられなかった。そして夕日が落ちて今日のメインイベント,キャンプファイヤーである。あの広い公園をいっぱいに,たいまつを持った子供達が例年より数倍大きな輪となり,幻想的な世界でした。夜7時には撤収して,8時には帰船したのでした。
 
                     とにかく熱くて長い1日でした。
今日のビデオ版見てくれたかな?
                     今週はなにかと忙しくて,
話が進まない
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その8 − グァムの島内観光とショッピング 
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●1989(平成元)年1月11日(水) 第6日 快晴
 
恋人岬 青森テレビの船を取材
 きょうは2班に分かれてのグァム島内観光とショッピングだ!! 
 まず子供達の半分がバスで免税店にショッピングに行く。同じバスが今度は島内観光をして,昼には第一ホテルで昼食する。別の班はバスで先に置いてきた免税店迎えに行って昼食とする。午後は入れ替わり,午前ショッピングした班は観光に,観光した班はショッピングとなる。こうするとバスは半分ですむのだ,うまいことを考えたものだ!!
 
 われわれ技術班と番組製作班は2班に分かれた。1班は観光潜水船による海底取材に行った。わたくしは,もう1班のほうに加わり,ショッピングの取材お手伝いと,買物をした。初めてのドルでの買物となったが,何ドルと言ってもなかなか価値が分からなくて,つい高いものを買いそうになる。ドルは秋田銀行本店で換金してもって行ったが,買っているうちに足りなくなったが,何と円でも買えるのである。但しレ−トが少し高くなる。日本で1ドル127円で換金したが,現地では130円であった。もちろんカードも使えるのだが,そんなに買うつもりが無いので止めた。買ったものはブランデー・ウイスキーなどの酒類と,香水・チョコレート製品・サングラス・財布・皮製コースターなどだ。面白かったのは,グァムと名前の入ったベル付き先抜きを買ったが,後から中をよく見てみたら,MAIDE IN TAIWANとあるのにはびっくりした。
 
 この免税店は日系の人が経営しているので,店員は半分以上が日系の人であり,日本語が通じる。勿論日本観光客が多いので,KDDの電話がある。子供達は買物が一段落すると,これがあるのに気がついた。日本語で申し込めるし,料金着払いだから,安心してかけられるので,しまいには行列となってしまった。
 
 午後からは取材専用のワゴン車で観光地の取材を行なった。まずタモン湾の北端につきでた恋人岬に行って,レポートをいれた取材をした。このときカメラマンが切り立つ崖の上から,下の岩に打ち砕ける波を撮ろうと,柵にかけ上がりその外に三脚をセットしようとしたときに,バランスを失いカメラが落ちそうになった,その時「オット!!」と声をかけ引っ張ったので,事なきをえた。何百万円もするカメラだから,いくら保険にはいっているとはいえたいへんだ。後から良くみたら,カメラの足が崖の縁から10cmとなかった。かつてここには2人の恋人のブロンズ像が立っていたが,去年の台風で倒れてしまった。したがって今はその台座があるだけである。そうして取材している間に,子供達のバスがやってきた。
 
 次に青森テレビの船の子供たちが,昨日居たイパオビーチに居るので取材に行った。その子供達を見ていたら,サッカーボールを蹴って椰子のみを落とそうとしているのである。それをみて「いやーー 自由でのんびりしているなーー」と思った。
 
 アガニャ市街が一望に見渡せるアプガン砦に行ったら,丁度子供達がいて取材した。ここは現住民のチャモロ族が,スペインに反乱した際に,スペイン軍の拠点となった砦。太平洋戦争当時は,日本軍が砲台として使用した。ときどき「ちのか」で流れるグァムフィラーと同じなのだ。
 
 アプガン砦の下にある,ラッテ・ストーン公園に行った。これはマリアナ諸島に残る有史以前の石像物だが,これが何に使われたのか未だに解明されていない。このすぐわきにコンクリに「防空ごう」と書かれたものがあった。旧日本軍のものであろう。危険防止のためか鉄条網が張り巡らされていた。
 
 5時には帰船して,仙台から乗船してこども達と一緒に生活していた,グァムのDAVIDくんと,飯塚麻美ちゃんとのお別れ会が行なわれた。二人とも数え切れないくらいの日本の友達ができました。
 
今日も熱くて日陰を捜しながら,
                 取材に同行した。
買物はゆっくりできたのでよかったなーー
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その9 − グァムの海水浴と出港
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●1989(平成元)年1月12日(木) 第7日 快晴
 
グァム島を出港 デッキランチ
 今日は午前中海水浴をして,昼には出港である。一昨日と同じように荷物を積んで先発バスでイパオビーチに向かった。私のところはマイクとトランペツトをセットすればいいだけ。でも今日は自分で,中途半端なので海水浴をしないことに決めていた。考えてみれば,サイパンでは海水浴をしなかったし,グァムでは初日の午前だけ午後は仕事で出来なかった。それ以外はなるべく日陰で仕事するようにしていたので,あまり日に焼けていないのである。
 
 一昨日の海水浴は,あづまやの正面でやったがすぐ深くなって苦労した,今日は海に向かって左側のヒルトンホテルよりの方でやったら,遠浅で広く泳げるのでよかった。
 
 ここのトイレはもちろん洋式便座であるが,入口にドアが無いのである。日本流に言うと無いとおかしいが,ここの国では中が見えると悪いことが出来ないので,保安上こうしているようだ。でも通るとぎばって居るのが丸見えなので,一瞬ドギッとする。
 
 11時には海水浴を止めて撤収して,12時には帰船すぐ出港した。船での食事はいつもレストランで行なっていたが,今日の昼食は出港してすぐ甲板で,好きなものを何でも取れるバイキング形式のデッキランチとなった。メニューはフライドチキン・フランクフルト・揚げ春巻・焼肉・ショートリブ・スペァリブ・ミートソース・マカロニ・牛丼・ドライカレー・冷麦・ドリンク・サラダ・フルーツ・ゼリーである。子供達はグァムに別れを惜しみながら,思い思いの食事をとった。あれやこれや食べているうちに,腹いっぱいとなった。
 
 3時半から黒んぼ大会と誕生会が行なわれた。男女20人ぐらいづつが出て黒さを競ったが,その時のポーズも審査の対象になったらしくて,結構面白い子が選ばれた。その時の審査員(スタッフの一人=東急の原田所長)の中にまつ黒な人がいたので,私ならそちらも番外で選びたかった。
 
                   グァムを出港して後は帰るだけ
                   でも今日を含めて後4日もあるのだ
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その10 − あわてて日光浴
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●1989(平成元)年1月13日(金) 第8日 快晴
 
日光浴 アマチュア無線 夕日
 午前中,子供達は明日行なわれる少年の船祭りの準備に追われていた。自分達で何をするか考え,準備するのである。もうだいぶたくましくなって,どんどん自分の意見を言うのである。
 
 今までは焼ける暇がなかったし,きょうはあまりいい天気なので甲板で1時間ほど日光浴をすることにした。ベンチにごろっと横になり寝ていたが,グァムを離れてから24時間近くなるので,日差しは強いが日は傾いていた。真上を向いて寝ていると顔の半分しか焼けないので,横に向けて焼いていた。
 
 今回の船旅で初めてアマチュア無線をやってみた。去年までは大活躍をしていたが、今年は衛星を使った電話やファックスがあるので,使わなかった。秋田にCALLして会社のクラブ局につながった。フエージングもなく明瞭であった。秋田からの話では,「+2度ぐらいで,昨日5cm雪が降ったが,今は溶けて道路に雪はない。」
 
 午後からは税関検査が行なわれた。子供達はベッドの上にグァムから買ってきたものを並べ,検査を受ける。お小遣いは2万円までとなっているが,実にいろんなものを買っている。とにかくお金持ちだ。ドルで買うため価値が分からないのか,30ドルの真っ黒なサングラスを,買ったりするのである。どうも親は決められたお金とは別に持たせているようである。
 
 夜には,ディスコ大会をやった。各班別に仮装して,ディスコの競演である。私もただ見ていては面白くないので,ピンスポットを振ったりした。大変な乗りで,大盛況であった。この後消灯となり,この興奮がさめやらぬのか,子供達はなかなか寝ないのだ。このとき時差の変更が行なわれた。グァム時間9時から,日本時間8時に1時間戻るのである。夜が1時間長くなって何か徳した感じだが,来るときにも逆の時差変更をしたので,同じなのだ。
 
                   毎日,関税のかからない
                   オールドパーを飲んでいる。
                   船内では2500円で買えるのだ。
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その11 − 相変わらず子供達は元気だ
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●1989(平成元)年1月14日(土) 第9日 快晴
 
取材テープの編集中 解団式
 今日は子供達主催による少年の船祭りが1日中行なわれる。午前はパートTとしてウルトラクイズ・片足体操・腕相撲大会・いすとりゲーム・じゃんけんジェンカ・のど自慢大会などが行なわれた。のど自慢大会では,大人顔負けのオールドカラオケがでてきたり,かとおもえば今はやりのTVの真似などにぎやかだ。午後はパートUとしてじゃんけん大会・クイズ大会・大声大会・借り物競争などが行なわれた。
 
 ここで今回の船「ニューゆうとぴあ」を紹介しょう。
  所  属 西日本汽船(株) (青森−函館フェリー・東日本汽船の子会社)
  航行区域 国際遠洋
  竣  工  昭和57年7月29日  
  全  長  162.92m
    幅    21.00m
  吃  水  6.2m
  総トン数 12.100トン
  定  員  594名
  主  機  18,000ps*2(36,000ps)
  最高速力 25ノット
  電  流  A/C 110V 60Hz
  全室冷暖房完備
  船舶電話
  海事衛星通信装置(電話・FAX)
  横揺れ防止装置(フィン・スタビライザー)付
  左右移動装置(バウ・スタンスラスター)付
 
 私の泊まった部屋は,Aクラスのツインで窓・TVがあり,トイレとシャワーが隣の部屋と共有である。Aクラスというとその上がSクラスで,そのまた上がオーナーだから,結構いい部屋なのだ。トイレ・シャワーには両側の部屋にドアが付いているので,使うときは両側に内錠を掛けて使用する。ところが終わったときにとなりの部屋の内錠は掛けたままで,出てきてしまうととなりの人が入れなくなってしまうのだ。
 
 いよいよ明日は日本上陸のため,夕方には解団式が行なわれた。解団式の最後には,子供達からわれわれスタッフに色紙で作った首飾りが掛けられた,そしてセミナーの先生やスタッフが1列に並び,そこに子供達が一人づつ握手しながら退場した。途中感きわまって泣き出す子供や先生があり,感激的な解団式となった。
 
もう明日でこのツアーも終わりだ。
                  このボードも1/16から書いてきたが
後2ー3回で終わりだ。
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その12 − 日本上陸!!
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●1989(平成元)年1月15日(日) 第10日 快晴
 
仙台新港 帰りのバス
 *今日はこの旅もいよいよ最後の日で,10日ぶりの日本上陸だ。
 
 昨日は最後の夜と言うことで先生方とわれわれスタッフが,パーティーを開いた。私も酒好きの方だが今回のツアーではなぜかあまり飲んでいなかった。ところが昨日はなぜか違った。最後だからと言うのか,あの船の中で(船以外はない,あとは海だけだ!!)場所を替えて3次会までやってしまった。おかげで寝たのは深夜2時で,朝は起きられないし,頭は痛いし,朝食も食べられない。若い20代の先生たちはこういう生活を毎日続けてきたと言が,信じられないスタミナだ。
 
 朝飯抜きで下船の準備の荷作りが始まった。1月6日に1階の船倉から,5階上の甲板に上げてセッティングした荷物を,また1階に戻すのである。またおみやげや鞄などの私物も荷物とした。だから帰りのバスはちょっとした紙袋だけである。
船は飛行機と違って荷物を持っての移動が少ないので,つい買物の荷物が増えてしまう。ある先生はおみやげをいっぱい買って,帰りのバスの荷物入れに積み込み,家まではタクシーに後ろが見えないくらい積み込んで帰ったと言う。
 
 9時45分に18台の観光バスと出迎えのスタッフが待つ仙台新港に入港した。子供達が船内で下船のセレモニーをやっている間に,われわれスタッフは1階の船倉にトラックを入れて,荷物を積む作業に取りかかった。それがなんと降ろしたときは15トントラックだったが,積むときは8トントラックだから,帰りのバスがもうすぐ出発するというのに,全部積むのにぎりぎりまで時間がかかってしまった。
 
 10時30分に県内各地区別のバスが出発した。高速道路を行くので,いちばん早く着くのは意外なことに鹿角方面なのである。仙台から盛岡までは大変良い天気で,途中の花巻を過ぎたあたりで,雪をかぶった岩手山がくっきりと輝いていた。私の乗ったバスは仙岩峠を越えて田沢湖町に入った。このあたりから雪がちらついてきた。ここで「やっぱり秋田に帰って来たんだ」と言う感じがわいてきた。
 
 17時にバスは子供達の家族が待つ秋田市中央公民館前に到着した。ここでびっくりしたのは日曜日と言うのに「ちのか」の職員がいっぱい迎えにきていたのである。ここから歩いて会社に行くと,ロビーには今朝トラックに積んだ荷物が山のようになっていた。迎えにきた人たちで,トラックから降ろしていたのである。
 
 私は私物を荷物の山から捜し出して,家族の迎えにきた車にいっぱい積んで帰ったのだ。家で久しぶりに食べた味噌汁のおいしかったこと。それから毎食これ食べたい,あれ食べたいをやっていたのだ。
 
長い船の生活も今日で終わった。
                  長い紀行文もようやく終わりに近ずいた。
今度は総集編をUPして終わりとしたい。
  フーフー ああ疲れた。
 
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 グァム・サイパンへの船旅 その13 − 御愛読ありがとう!!
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 *13編にわたる「グァム・サイパンの船旅」シリーズを長い間御愛読いただきありがとうございます。
 
 1/16から2/8までの4週間ほどで書き上げた訳だが,初めはなかなか進まないと思ったこともあった。しかし終わってみれば,1ボードあたり約50行を12ボード書いた訳だから。
 
 70字*50行*12ページ=42,000字
 
 400字詰めにして 42,000字/400=105ページ
 
 「おや?何という数字だ!!」これは凄いスピードではなかったかな。書き込む日は2時間ぐらい掛けて1ボードを書いたので,UPする時間は12時過ぎとなる日が多かった。
 
 このはなしは,実際に行なわれた日程のメモを元に,思いだしながら面白そうな話を書き綴った。こんなに長い作文をワープロで綴ったのも初めてだ。ワープロだから出来たので,手書きではこうはいかなかった。このままではまずいので,これを編集して会社に報告書を出すことにしている。また皆さんが良ければファイルとしてUPもしたいがどうかな?。見逃した人もじっくり見れるのではないかな。もう一つ動く航海図も**.BASとしてUPしたいと思っている。
 
 また激励のお便りがあり,毎日皆さんが楽しみに待っていると思うと,つい夜遅くまでやってしまうのだ。何か文筆業になった感じで,作家気分で毎日書きまくったのだ。
 
 思い起こせば,船の旅はまたとない経験で印象がいちばん強い。またグァム。サイパンの日差しの強さは日本の比ではなく,日焼け止めをしないと赤く腫れてしまう位なのだ!!。
 
 とにかく10日間の船旅は終わった。
 
     長い間御愛読ありがとう。
 
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